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2004/11/03
カテゴリ: むらのこと : 

執筆者: yuni (11:03 pm)
文字化けしたので修正再送です。

美麻のブログhttp://www.elm-wood.org/blog/
で合併後の学校のあり方が話題になっています。

合併後も八坂・美麻の学校は存続するということは決まっていますが、それはあくまで合併当初のこと、将来どうなるかは分からないということです。

新入生がいなくなったとき。合併後10年たったとき。校舎の建て替えのとき。あるいは、国が公教育を放棄しかけている中で、県が財政負担しきれなくなったとき。とにかく財政問題が表面化すれば、学校統合の話しは確実に出てくるでしょう。

基本としては、八坂の人口を特に小中学校に通う子どもの数を維持することができれば、簡単に学校の統合などできるものではありません。それが困難になったとき、いままでのいろいろな地域の合併後の流れで行けば、小中学校は大町に統合され、学校の無い地域には若い人が暮らせなくなり、いよいよ廃村へむけてのカウントダウンがはじまるということになります。

「山村留学」は八坂の看板ですが、はたして八坂の人たちはこの制度をどこまで理解し活用しようとしているのかわかりません。美麻村ではメンドシーノとの交流事業を合併後どのように進めるのか、具体的な問題に直面しています。

いずれにしても「山の学校」の特別な価値を、地域に暮らす私たちがまず再確認し、それを広くアピールするような活動をはじめる必要があると思います。

公立学校の「公設民営」の話しも出てきています。まさかバスや給食のような方向になってしまっては困ります。地域住民による地域の特色を生かした「山の学校」の運営が可能ならば、ある意味ではそれが理想かもしれません。しかし、地域で暮らすことへの思いがよほど強くなければ、学校まで運営することはできないでしょう。もちろん財政的な裏付けや専門的なバックアップも不可欠です。ここはやはり、いまの公教育の枠の中で、山村の学校の価値をアピールしていくことが現実的だと思います。

現大町市の地域から学校を越えて八坂や美麻の学校に通えるような仕組みをつくるという裏技?も考えられます。

合併後の地域を考えるとき、八坂・美麻の小中学校の問題はとても重要な課題ですから、合併前から様々な形で活動をはじめる必要があるかもしれません。

山村留学やメンドシーノ交流など、八坂・美麻の特色を生かす事業として共同のとりくみを考えてみたいものです。とりあえず知恵の交換からはじめませんか。
2004/11/01
カテゴリ: むらのこと : 

執筆者: yuni (11:49 pm)
一応ここは情報を発信したり、通したり、整理したりする場所だと思っています。
ただ、絶対的アクセスが少ないので、混乱なくやっていられるのですが、もしも中越地震のまっただ中で活動しているブログサイトのような状態になれば、私なんてとてもついていけません。ということは、八坂村のほとんどの人にとっては、ネット上の情報なんてものは役に立たないということでもあります。

インターネットは被災者の周辺、行政やボランティアやこれから何かしようとしている人たちにとってはとても有益な情報を提供しています。いまどんな物資が必要なのか、ボランティアに行くにはどこに連絡をとり、どんな準備をすればいいのかなどなど。もちろん、被災当事者に有益な情報もたくさんあるのですが、残念ながら避難所にパソコンを持ってきている人はほとんどいないでしょうし、パソコンなんてさわったこともない人だってたくさんいるのです。

大地震のおかげもあって誰も八坂村にボランティアで支援に来ようなどと思ってはいないので、私はこんな呑気なことを書いていられるのですが、もし八坂が災害の中心地になってしまった場合を考えると、やさかむら.netで何ができるのか。やはり紙に印刷した情報の必要を感じます。

****
20日の夜、私は消防団の本部にいる知人から直接携帯電話で、一ノ瀬は避難することになるので、これから家族のところに行くと知らされました。その後一ノ瀬の人々にも役場から個々に電話があったようです。私の家族は消防団員に誘導されて徒歩で小学校に向かいました。車道は危険という事前情報があったからです。実際には徒歩で通ったルートで後に(たぶん夜半すぎ?)土砂崩落が発生していました。一ノ瀬の他の人たちはほとんど車で避難所にむかいました。車道の危険について地元の人たちはその「程度」についてよくわかっていたからです。

一方私はその時点で、この災害の危険度についての認識が甘かったと言えます。小菅で消防団員として防災活動をしていた私は、作業が一段落した時点で一ノ瀬で避難指示が出たことを分団長に口頭で伝えました。消防無線はありましたが、現場では聞き取りにくく、状況把握は遅れていました。
金熊川の増水の勢いははげしく土嚢などはすでに用をなしておらず、すでに消防団としてできることは限られていたので、分団長は私が家族の元に合流することを許可してくれました。
同じとき役場から小菅の様子を見に来ていた職員と議員がいたので、いっしょに歩いて小菅を離れたのですが、途中何カ所も土砂崩落している場所があり、豪雨の中膝までもぐる土砂をかきわけてそうした場所を突破しました。
今考えれば、これほど危険なことは無かったのです。まさに土砂が崩落しつつある最中に、その現場を通り抜ける必然性はまったくありません。流れ落ちてきた大木をまたいで歩いたわけですが、次の木がそこまで迫っている危険を理解していませんでした。小菅にいた私たちの問題は「浸水」であって土砂くずれの危険を意識するような状態ではなかったのです。

現に土砂崩れが目の前で発生しているにもかかわらず、土砂崩れの危険性を知るための知識も情報もなく、一方で避難指示が出ている状況でありながら、夜間に土砂崩落現場を歩いて突破することの危険を指摘する者などいませんでした。そして、たぶん同じ頃、笹尾で大崩落が民家のすぐそばを通り抜けていったのでした。笹尾では避難指示は出ていませんでした。そのためかどうか、あの場所を通りがかった人がいなかったのは幸運だったとしか言いようがありません。

全ては経験を越えたレベルの災害であり、誰も的確な判断はできませんでした、しかし結果として人的災害が無かったのは、ほとんどの人が動かなかったからと言えるかもしれません。そして数少ない動いていた人たちは幸運だったのです。

避難所にはその後の情報はまったく入らなくなりました。役場は避難所に情報の流す機能を持っていなかったのです。翌朝私は分団に復帰するために避難所を離れたのですが、結局住民の側で役場に出かけたり現場を見に行ったりして情報を集めるしかなかったということです。
ともかく、一ノ瀬のひとたちは明るくなって家にいったん戻り、被害状況を目で確認し、その後の地滑りの危険などの情報を得て、2日目からはそれぞれの避難場所を選んで自主的に行動し一部の人は一ノ瀬に戻りました。

私は21日の夕方になって、一ノ瀬の地滑りの状況について役場の職員から現地で話しをきいて、当面避難した方が良いだろうと自分で判断しました。そのために自分では「自主避難」という認識でいます。しかし、行政的にはどうなってるのか、イマイチわかっていません。私がいないときに、役場から電話があったようですがそれが、避難勧告のようなものだったのか、単なる情報提供だったのかよくわかりません。

台風は地震とちがってすぎてしまえば終わり。その後3日間は消防で災害復旧にかかわったものの、あとは日常生活に戻り仕事もしているので、だんだん情報がつかめなくなっています。世間では地震の情報ばかりですし、我が家も傾いてはいないので、平気で昼間は出入りしているし、朝夕地滑り計をチェックはしているものの専門的判断はできません。結局自分の判断での「自主避難」を続けているのですが、本当は役場に行って情報を得る必要があるでしょう。忙しくて暇がないというだけのことなのですが、情報サイトの管理者としては失格ですね。

もしかしたらこの読者の方には、八坂村での台風災害の状況についてまとまった情報が欲しいと思っている方もあるかもしれません。それを次の村の広報が出る前に提供することができるとしたら、やっぱりここしかないのでしょうか。いや村の広報が出るまで待っても良いのかも?
2004/10/30
カテゴリ: むらのこと : 

執筆者: yuni (10:27 pm)
地滑り地故の豊富な水、豊かな土壌、そして素晴らしい景観というものでもある。この地で暮らすということは、そうした恵みとリスクとが隣り合わせなのだ。

今回の災害で土砂崩落で埋まった道は多いが、道そのものが崩落してしまった例は少ない、そのため土砂を取り除けば復旧は早い。道の建設と維持には特別の力を注いできた結果とも言える。

しかし我が家の上の場合、道路が川のようになって水が流れりそこに亀裂が入り、結果として地面が動き出している。また今回の災害でも最大級の崩落で、民家がかろうじて助かった笹尾の崩落も、道路がそっくり流れ出したという状態だ。

いまも事務所機能がそのままなので、毎日一ノ瀬の家に通っている。そして毎日地滑り計を覗くのも日課になっている。
昨日からさらに2カ所地滑り計が設置された。この地滑りがどの程度の範囲にまで及んでいるのかさらに詳細に調べようということのようだ。

すでに一ノ瀬の人たちの一部は避難先をから帰宅しはじめている。村の年寄りは大丈夫だと言うが、笹尾の大崩落を見てしまったので、地滑りの範囲がもう少し定まり本当に動きが止まるまでは、当分夜間は避難していようと思っている。もちろん昼間だって安全というわけではないのだが、万一の場合でも逃げる余裕はあるだろう。

自然の力だから仮に大崩落が我が家を直撃したとしても仕方ないことだ。取り返しの無いものはこの家にはほとんど置いてない。状況を十分に把握しながら、様子を見ているわけだ。

いずれにしても、この程度のことで私が八坂を離れるようなことはあり得ない。多少時間がかかっても、いずれこの家で生活できるようになると思っている。ところで避難生活。幸いにも妻の実家なので生活上は何の問題もない、中越の人たちのことを思えば、とても避難とは言えない状態だ。



ブルーシートで覆われた道路のひび割れ、我が家はこの下の道をはさんで約50m下


笹尾の大崩落、上部の道路から民家ギリギリまで200mくらい崩れ落ちていた

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