うぇブログ - 最新エントリ |
最新エントリ配信 |
最新エントリ
2004/11/17
カテゴリ: むらのこと :
執筆者: yuni (10:09 pm)
|
美麻村の壁新聞ブログでsaccoさんの記事「収穫祭」 http://www.elm-wood.org/blog/archives/000301.php を読んで思ったこと。 育てる会の収穫祭、参加できませんでした。レポート書きたかったのに残念でした。 八坂と美麻って実際以上に「距離」があるなって思ってますから、充分に「留学」だと思います。お互いとなり村だけど普段から大町に向いて暮らしているので良く知らないことばかりです。 育てる会の子どもたちは、八坂のセンターから美麻の学校まで通っているし、両方の「むら」にかかわって暮らしているけれど、地元の子どもたちや大人たちは交流少ないですね。 去年はじめて言ったのですが、美麻の「小中学校」というあり方は、また独特の空気があって、八坂の子どもたちにも体験してもらうと良いかもしれない。 合併をチャンスに「むら人」同士の交流が生まれるといですね。とりあえずお隣のブログということでの交流させてもらってますが。 美麻・八坂だけでなく、新町、大岡、小川など、生坂・・・等々、共通する課題もいろいろ有ると思います。 去年の春に一回だけ小川村でそんな範囲の人たちが集まる機会がありました。合併への対応もそれぞれだったりして、その後はあまり連絡もしてませんが、合併後を考えるとき大切にしたい「山のむら」の仲間です。 |
2004/11/08
カテゴリ: わたしくごと :
執筆者: yuni (11:33 pm)
|
地滑りの危険ということで台風23号襲来以来続いていた避難生活が終わり、昨日からようやく我が家で寝泊まりするようになりました。 避難と言っても、避難所ではなく普通の家でしたから、特別な不自由はなく(通信環境はADSLでした!)いろいろ心配していただくほどのことも無かったのですが、やはり我が家での日常をとりもどせてほっとしています。 一ノ瀬の地滑りについての安全宣言が出たわけではないのですが、最初に動いていた道路のひび割れについては一応動きが止まったために、とりあえず舗装を修復することになりました。 新たに2カ所伸縮計を設置したうえで、各戸の庭先に地滑り警報装置が設置されました。4mm動いたらサイレンが鳴るそうです。これで安心なのかどうか疑問はありますが、こういう生活も地滑り地ならではということで・・ ともかく家族そろってこの地での生活を続けていきたいと思っています。 いろいろご心配いただいたみなさん、ありがとうございました。 |
2004/11/04
カテゴリ: 世間のこと :
執筆者: yuni (8:45 pm)
|
Miasa Shared Blogにトラックバックしたら文字化けしてしまいましたが、 速やかに対応していただきました。 日本語の文字コードの問題は複雑ですね。 『中条村はすごいかも』にyuniさんからトラックバックがあったのですが文字化けしてしまいました。応急処置として、xmlファイルの書き換え、削除、置換、ファイル名変更など、考えられる方法をすべて試したのですが、うまくいきません。 お手数かけて申し訳ありませんが 設定変更してみたので再度テストさせていただきます。 ウェブのこともいろいろ勉強させてください。 |
2004/11/03
カテゴリ: むらのこと :
執筆者: yuni (11:03 pm)
|
文字化けしたので修正再送です。 美麻のブログhttp://www.elm-wood.org/blog/ で合併後の学校のあり方が話題になっています。 合併後も八坂・美麻の学校は存続するということは決まっていますが、それはあくまで合併当初のこと、将来どうなるかは分からないということです。 新入生がいなくなったとき。合併後10年たったとき。校舎の建て替えのとき。あるいは、国が公教育を放棄しかけている中で、県が財政負担しきれなくなったとき。とにかく財政問題が表面化すれば、学校統合の話しは確実に出てくるでしょう。 基本としては、八坂の人口を特に小中学校に通う子どもの数を維持することができれば、簡単に学校の統合などできるものではありません。それが困難になったとき、いままでのいろいろな地域の合併後の流れで行けば、小中学校は大町に統合され、学校の無い地域には若い人が暮らせなくなり、いよいよ廃村へむけてのカウントダウンがはじまるということになります。 「山村留学」は八坂の看板ですが、はたして八坂の人たちはこの制度をどこまで理解し活用しようとしているのかわかりません。美麻村ではメンドシーノとの交流事業を合併後どのように進めるのか、具体的な問題に直面しています。 いずれにしても「山の学校」の特別な価値を、地域に暮らす私たちがまず再確認し、それを広くアピールするような活動をはじめる必要があると思います。 公立学校の「公設民営」の話しも出てきています。まさかバスや給食のような方向になってしまっては困ります。地域住民による地域の特色を生かした「山の学校」の運営が可能ならば、ある意味ではそれが理想かもしれません。しかし、地域で暮らすことへの思いがよほど強くなければ、学校まで運営することはできないでしょう。もちろん財政的な裏付けや専門的なバックアップも不可欠です。ここはやはり、いまの公教育の枠の中で、山村の学校の価値をアピールしていくことが現実的だと思います。 現大町市の地域から学校を越えて八坂や美麻の学校に通えるような仕組みをつくるという裏技?も考えられます。 合併後の地域を考えるとき、八坂・美麻の小中学校の問題はとても重要な課題ですから、合併前から様々な形で活動をはじめる必要があるかもしれません。 山村留学やメンドシーノ交流など、八坂・美麻の特色を生かす事業として共同のとりくみを考えてみたいものです。とりあえず知恵の交換からはじめませんか。 |
2004/11/01
カテゴリ: むらのこと :
執筆者: yuni (11:49 pm)
|
一応ここは情報を発信したり、通したり、整理したりする場所だと思っています。 ただ、絶対的アクセスが少ないので、混乱なくやっていられるのですが、もしも中越地震のまっただ中で活動しているブログサイトのような状態になれば、私なんてとてもついていけません。ということは、八坂村のほとんどの人にとっては、ネット上の情報なんてものは役に立たないということでもあります。 インターネットは被災者の周辺、行政やボランティアやこれから何かしようとしている人たちにとってはとても有益な情報を提供しています。いまどんな物資が必要なのか、ボランティアに行くにはどこに連絡をとり、どんな準備をすればいいのかなどなど。もちろん、被災当事者に有益な情報もたくさんあるのですが、残念ながら避難所にパソコンを持ってきている人はほとんどいないでしょうし、パソコンなんてさわったこともない人だってたくさんいるのです。 大地震のおかげもあって誰も八坂村にボランティアで支援に来ようなどと思ってはいないので、私はこんな呑気なことを書いていられるのですが、もし八坂が災害の中心地になってしまった場合を考えると、やさかむら.netで何ができるのか。やはり紙に印刷した情報の必要を感じます。 **** 20日の夜、私は消防団の本部にいる知人から直接携帯電話で、一ノ瀬は避難することになるので、これから家族のところに行くと知らされました。その後一ノ瀬の人々にも役場から個々に電話があったようです。私の家族は消防団員に誘導されて徒歩で小学校に向かいました。車道は危険という事前情報があったからです。実際には徒歩で通ったルートで後に(たぶん夜半すぎ?)土砂崩落が発生していました。一ノ瀬の他の人たちはほとんど車で避難所にむかいました。車道の危険について地元の人たちはその「程度」についてよくわかっていたからです。 一方私はその時点で、この災害の危険度についての認識が甘かったと言えます。小菅で消防団員として防災活動をしていた私は、作業が一段落した時点で一ノ瀬で避難指示が出たことを分団長に口頭で伝えました。消防無線はありましたが、現場では聞き取りにくく、状況把握は遅れていました。 金熊川の増水の勢いははげしく土嚢などはすでに用をなしておらず、すでに消防団としてできることは限られていたので、分団長は私が家族の元に合流することを許可してくれました。 同じとき役場から小菅の様子を見に来ていた職員と議員がいたので、いっしょに歩いて小菅を離れたのですが、途中何カ所も土砂崩落している場所があり、豪雨の中膝までもぐる土砂をかきわけてそうした場所を突破しました。 今考えれば、これほど危険なことは無かったのです。まさに土砂が崩落しつつある最中に、その現場を通り抜ける必然性はまったくありません。流れ落ちてきた大木をまたいで歩いたわけですが、次の木がそこまで迫っている危険を理解していませんでした。小菅にいた私たちの問題は「浸水」であって土砂くずれの危険を意識するような状態ではなかったのです。 現に土砂崩れが目の前で発生しているにもかかわらず、土砂崩れの危険性を知るための知識も情報もなく、一方で避難指示が出ている状況でありながら、夜間に土砂崩落現場を歩いて突破することの危険を指摘する者などいませんでした。そして、たぶん同じ頃、笹尾で大崩落が民家のすぐそばを通り抜けていったのでした。笹尾では避難指示は出ていませんでした。そのためかどうか、あの場所を通りがかった人がいなかったのは幸運だったとしか言いようがありません。 全ては経験を越えたレベルの災害であり、誰も的確な判断はできませんでした、しかし結果として人的災害が無かったのは、ほとんどの人が動かなかったからと言えるかもしれません。そして数少ない動いていた人たちは幸運だったのです。 避難所にはその後の情報はまったく入らなくなりました。役場は避難所に情報の流す機能を持っていなかったのです。翌朝私は分団に復帰するために避難所を離れたのですが、結局住民の側で役場に出かけたり現場を見に行ったりして情報を集めるしかなかったということです。 ともかく、一ノ瀬のひとたちは明るくなって家にいったん戻り、被害状況を目で確認し、その後の地滑りの危険などの情報を得て、2日目からはそれぞれの避難場所を選んで自主的に行動し一部の人は一ノ瀬に戻りました。 私は21日の夕方になって、一ノ瀬の地滑りの状況について役場の職員から現地で話しをきいて、当面避難した方が良いだろうと自分で判断しました。そのために自分では「自主避難」という認識でいます。しかし、行政的にはどうなってるのか、イマイチわかっていません。私がいないときに、役場から電話があったようですがそれが、避難勧告のようなものだったのか、単なる情報提供だったのかよくわかりません。 台風は地震とちがってすぎてしまえば終わり。その後3日間は消防で災害復旧にかかわったものの、あとは日常生活に戻り仕事もしているので、だんだん情報がつかめなくなっています。世間では地震の情報ばかりですし、我が家も傾いてはいないので、平気で昼間は出入りしているし、朝夕地滑り計をチェックはしているものの専門的判断はできません。結局自分の判断での「自主避難」を続けているのですが、本当は役場に行って情報を得る必要があるでしょう。忙しくて暇がないというだけのことなのですが、情報サイトの管理者としては失格ですね。 もしかしたらこの読者の方には、八坂村での台風災害の状況についてまとまった情報が欲しいと思っている方もあるかもしれません。それを次の村の広報が出る前に提供することができるとしたら、やっぱりここしかないのでしょうか。いや村の広報が出るまで待っても良いのかも? |